考えるマカロニ

atsu-atsuの脳内のシナプスのお遊戯を文章化したものです。

創造

 

セックスという言葉がある。

子作りという言葉がある。

どちらも、なんだかなぁと思っていた。

 

「セックス」に違和感を持っていたのは、

そもそも日本語じゃないし、言うとき恥ずかしいし、

秘めごとでエロスで、なんだか自分の世界と馴染まない。

「『愛してるよ』よりも『大好き』の方が君らしいんじゃない?」

という宇多田ヒカルの歌詞の気分に似ている。

わたし、そういうタイプじゃないんだけど…というような。

 

「子作り」に違和感を持っていたのは、

なんだか身も蓋もない、情緒がない、

義務的なイメージがあるからだ。

「子作り」と言ったとたんに、

男女のセクシーなものだった行為が

いきなり「家族」とか「親族」とか

「恋愛」とは別次元のものになる。

 

なんなんだこれは。

 

あの行為は、美しい命が生まれる起点となる行為。

なのになぜ、

淫靡なイメージだったり

義務的なイメージだったり

違和感ばかりなんだろう。

 

あの行為は、原初はどんなものだったんだろう。

現代に生きるわたしたちは、その行為にまつわるいろんな情報を、

思春期~20代くらいの間に仕入れすぎてしまう。

そしてそのように演じてみたり、挑戦してみたりする。

だけど、その頃仕入れた情報は、どうして生まれたものなのか?

あの行為について、やけに淫靡なイメージを刷り込まれてきたんじゃないか?

本当は、神聖な行為なのに。

 

最近は、「セックス」はやっぱり違和感があるけれど、

「子作り」はまだましと思える。

でももっと何かないかな。

 

「命の創造」堅いな。

「誕生への挑戦」ますます堅い。

「合体」ロボじゃないんだから。

 

カップルで、その言葉を口にしても恥ずかしくないようなものがいい。

しかも日本語で。

「創命」

ちょっと荘厳すぎるし、セクシーさがなくなりすぎる気も。

でもセクシーさって必要だったっけ?

あの行為はセクシーということこそ撤回してみたかったのでは。

言葉の響きも大事にしたい。

 

「創子」(そうし)

どうでしょう。

意味がわかる。響きもきれい。

セックスという言葉がなくて、

日本人がみんなこの言葉を使っていれば、

悲しい妊娠も起こりにくいように思う。

これは子どもを創る行為なんだって、

これをした結果、子どもができるんだって、わかるから。

 

「創子」どうかなぁ。

相思相愛。創子創愛。

愛の子どもを創りましょう。