考えるマカロニ

atsu-atsuの脳内のシナプスのお遊戯を文章化したものです。

国語

高校生のとき、山田詠美さんの小説にはまった時期があった。

ブラックの男性と恋をする話がいくつかあったり、

ちょっと大人っぽい、かっこいい女の子の話が多くて、

憧れの気持ちをもって読んでいた。

 

その山田詠美さんが、実際にあった事件を題材にした小説を書いたという

Web記事を読んだ。

ルポライターではなく小説家が書くのだから、

事実プラス想像での心理描写というものが入ってくる。

事実を述べるだけではわかりえない部分を、描いたという。

 

その記事の中で、

犯罪を犯した人が、自分で自分のことをうまく説明できないことは

わりとよくある、というのを知った。

逮捕されて、取り調べの場で、うまく説明ができないがために、

他人の描いたシナリオに「はい」と言ってしまうことが、あるのだと。

頭の中にあることを言語化できないと、そういうことが、起こりうるのだ。

 

山田詠美さんの今回の作品は、

文章表現力に長けた人が、事件の渦中にあった人が言えなかったことを

代わって書き表したようなものなのかもしれない。

 

自分で自分のことを(その他のことも)表現できない、というのは

非常にもどかしいものだろう。

そのことを考えたときに、わたしは国語という教科の重要性に気づいた。

41歳にして。

 

小学校5、6年生のときに担任だった先生は、

国語に力を入れている先生だった。

わたしは、自分の言いたいことを、文章で表現することができる。

人に伝えることができる。

そうなれたのは、先生に習ったことが大きいと思う。

その先生の教育を当たり前に受けていたので、

今までその本当のありがたさに、気づいていなかった。

 

表現できない人がいることに、気づいていなかったのだ。

 

表現できないことは、犯罪につながっていく可能性もあるのだ。

冤罪にも。

 

世の中の子どもに、大人に、国語をもっと届けないと、心配だ。

わたしは何か役に立てるだろうか。

役立っていきたいと、思う。

 

 

わたしが読んだWeb記事

児童虐待が急増する中、山田詠美が「大阪2児放置死事件」に挑んだ理由(石戸 諭) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)