考えるマカロニ

atsu-atsuの脳内のシナプスのお遊戯を文章化したものです。

間に合わせの人生

 

食器棚を眺めていて考えた。

この中にわたしが選んで買ったものはどれだけあるか?

目で確かめる。

かなりの数が、いただいたものだった。

そして表題の言葉が頭に浮かんだ。

 

「間に合わせの人生」

あるから、使えるから。

もったいないから。そんなことを理由に、いつのまにか自分らしさが消失していく。

自分らしくない空間が出来上がる。

ぐえ。

反吐が出そうだ。

 

実家の食器は、母が買いそろえたものは少なかった。

わたしの記憶では、母が言っていたのは。

母が嫁いでくる前から、

米俵に食器がたくさん入ったものがあって(この辺が謎な記憶だが)

そこから使えるものを使っていると…。

なんだか変な話だが、とにかく、母は、父の家にすでにあった食器を使っていた。

ほぼすべてが和風で、中でもよく煮物をのせていた、

「かぶ」がデザインされた器が、古臭くて好きではなかった。

丸皿で、ピンクと緑のラインがぐるりと入ったものも、好きではなかった。

おじやを食べるときに毎度登場する、白くて青で絵の入ったお皿なんて、

「井戸のまわりでお茶碗欠いたのだーあれ」

って歌が頭に浮かぶくらいレトロだった。

今では実家ではそれらのお皿はほとんど使っていないけれど、

やっぱりもらいものは多い気がする。

 

なんだかんだ、人は実家の影響を大きく受けている。

なんだかんだ、我慢する価値観の中にいたのかなと思う。

 

実家のすべてが嫌だったわけではない。

それが証拠に、去年買った茶箪笥は

実家にある飾り棚によく似たケヤキ材の純和風。

そんなに大きくない茶箪笥に引き戸や引き出しがたくさんついていて

至極お気に入りだ。

そこにはお茶、コーヒー、紅茶など、喫茶関係のものを納めている。

ガラス戸を通して見えるところには、

お気に入りのカップやグラスばかりを並べた。

その茶箪笥がわたしは大好きだ。

 

食器棚も、一掃しようかしら。

そして、夫の友人の作る食器を求めに、

益子まで行こうかしら。

だいたいあと半分の人生なら、

呪縛を捨てて、いろいろ手放して、

自分が美しいと思える世界で生きていたい。

 

そして子どもには、最初から自由でいてほしいと切に願う。

それには親がそう生きなきゃね。

そんな思いを、タイピングする指が導き出してくれる

晴れた6月の午前中です。